一歩立ち入る勇気とは? 〜ニュース、統計から見る時代の兆し〜

GoGetterz Voice 新企画 The Voicers Report は、世界各地で活躍する10人のゴーゲッターで構成された The Voicers が各々の活躍の現場から情報発信をしていきます。
今回は、Mr.and Ms.GoGetterz でもフィーチャーされた、離島育ちの視点から時代を読み込むライター&バー店主の宮国優子さんです。

 

はじめまして。宮国優子と申します。
故郷である宮古島と、現在住んでいる東京で、島の高校生から東京のさまざまな世代まで、文化相互理解を深めながら何か面白いことは出来ないか、と常に模索している毎日を送っております。 まずは、ひとりひとりが自分らしくあるために、身近な異文化交流!をスローガンにしています。

さて、最近、私が島目線で気になったニュース、
沖縄県の米軍ヘリパッド建設現場付近で、大阪府警の機動隊員が抗議活動をしている人に「土人」と発言した問題と東急電鉄のマナーCM「車内化粧篇」のふたつについて書こうと思います。

その前に、ドイツのベルリン交通局の公共CM【”Is mir egal” feat. Kazim Akboga】を紹介したいと思います。
何故か、島を思い出して笑顔がこぼれ、愉快な気分になりました。

 

ドイツ・ベルリン交通局公共CM【”Is mir egal” feat. Kazim Akboga】

 

歌詞を一部ピックアップしてみました。

音楽演奏しても気にしないよ
馬に乗ってても気にしないよ
女にヒゲが生えててもノープロブレム
たまねぎ切っても気にしないよ
股割りしても気にしないし、
ブリッジしても気にしないよ。なぜなら…
ありのままのあなたを、愛しているから

この「気にしなさ」は、島の雰囲気に似ています。
そして「愛があれば大丈夫」というメッセージも非常に島的。
島では、愛情や友情や憎しみですら、人間らしい発露として受け止めます。
感情が物事を判断する最大の基準かもしれません。
本音や建前を凌駕する人間らしいドタバタコメディが毎日を彩るのが島なのです。

そして、私の脳内島イメージもこの歌詞のような感じです。
島ではこのようにうまく言語化、映像化されていないのですが。
太古の昔から島には逃げ場が少なく、他人という個性をありのままを受け止めることが慣れっこの「珊瑚礁の思考」なのでしょう。
詳しくは喜山荘一さんの御本、 珊瑚礁の思考 〔琉球弧から太平洋へ〕に書かれています。

島のコミュニケーションは意外と直裁的。
素敵なら素敵、迷惑なら迷惑、と本人に伝えます。

島の人間同士は、距離が近い。
人間関係に波が立つけれど、わりと気にしてはいません。
始終ボカスカ喧嘩している人たちも多いです。でも、人間関係が切れるわけではありません。
ただ、人は人、という個人主義の方が多数なので、明日はどこ吹く風です。
仲の悪い友人同士の間にいても、飄々としているひとも多いのがその表れかと思います。

本土の移住者の人が困惑する場面もよく目にします。
島の人は、普段、穏やかですが、突然、激しく怒ったりします。
自分の根幹に触れる部分は、決してゆずらないからでしょう。
私もご多分にもれず、そういう島的頑固者の側面が強いです。

加えて言えば、島の人で、ずば抜けてコミュニケーション能力が高い人がいます。
彼らは、さらりと人の懐に入ります。言葉はストレートなのに、自然に素直なので嫌味がありません。
立場や序列を最優先とせず、謙遜すらしないので、多くの日本人からは異文化に思えるでしょう。

彼らは、島目線はもちろんのこと、同時に県、国、世界とさまざまな視点から、物事を見ています。
だからこそ、柔軟性、寛容さを持っています。多様性に関してもフラットで、理解というよりは、受容が自然に身についているようです。

離島に住んでいると世間が狭いと思いがちですが、精神や知性の自由さは世間をこえるのだな、と感心します。
その知恵は、悠久の昔から、四方八方が海であるため、逃げられないということも関係しているのかもしれません。
究極の現場主義です。自分たちで解決していかなければいけないからでしょう。
ひとつも他人事がないのです。

彼らは総じて、人格的に信頼され、人の上に立つ素質にあふれています。
初対面の人に対しても気負わないが、一歩立ち入る勇気があります。
時として拒絶されても、過剰反応をしません。
辛抱して、相手と渡り合っています。
人を切り捨てるようなことはしません。
彼らの魅力は、年齢を重ねれば重ねるほど、いぶし銀のように光ります。

その人たちと比べて、最近のふたつのニュースは、真逆の感覚を覚えたのです。
端的に言ってしまえば「立ち入りすぎたためのトラブル」と「立ち入らなかったゆえの偏狭さ」です。

 

「立ち入りすぎたためのトラブル」「立ち入らなかったゆえの偏狭さ」

まずは、ひとつめ。
土人発言。「立ち入りすぎたためのトラブル」です。
大阪府警の機動隊員が反対派の市民を「ぼけ、土人」「黙れ、シナ人」と罵倒したニュースは記憶に新しいのではないでしょうか。

そして、ふたつめ。東急電鉄の東急電鉄のマナーCM「車内化粧篇」です。SNSを中心に賛否両論だったトピックです。
「都会の女は皆綺麗だ でも時々、みっともないんだ」というコピーが冒頭にある。
「立ち入らなかったゆえの偏狭さ」を感じます。電車内の化粧を嫌だと思った人が直接注意できていれば、このようなマナーCMは出来ないはずです。

どちらもSNS上で激しく議論になっていました。
まったく違うトピックのようですが、どちらも20〜30代がやり玉にあげられたのではないか、と感じています。
日本の常識の世代間格差にも見えます。多くの若い人たちに目くじらをたて、萎縮させる社会を露呈しており、トライアンドエラーが許されにくいとうことが見て取れます。

ひとつめは「ぼけ、土人」と言う若者のメンタリティについて考えてみました。
上司たちはどのような感情を煽り立てて、若い彼らに警備をさせたのかと憂います。
多くの若者は、土人という言葉を日常では使いません。差別語として世の中から排除され、聞かなくなったからです。
土人という言葉は、その言葉を使う年代や組織が、若い彼らに言った言葉ではないでしょうか。
重要な任務を任されるとき、特権意識をもたなければ遂行できないのかもしれません。

ふたつめは、今までの世間の常識をくつがえしている、昨今の電車での化粧。
確かに40代以上はガッツリフルメイクは電車内で行う数は少ない。
マナーという言葉を使って、若い人をターゲットにしているのでしょう。
不快に思っても注意できる大人がいないということでしょう。

先日、友人が「最近は不寛容な人が増えた気がする」とつぶやきました。
私は、それは社会の変容とともに、人との距離や視野の狭さが原因ではないかと思います。
「他人のことは、他人のこと」という良い意味での多様性理解が、日本社会というフィルターを通すと、まったく反対の方向に向かって行く様子が見て取れます。

また、十年一昔は「ぼけ、土人」は一般のニュースにはのらなかったと思います。
あるサイトでは、言った彼のプロフィールまでも暴露される始末。
一言が千里をかける時代の到来です。他人とのやりとりが暴露され、彼自身が持つ他人への心の距離や差別感があらわになった瞬間でした。
かばうわけではありませんが、その一言は氷山の一角なので、それだけで判断することはできないと思います。
ただ、彼個人の人生に大きく影響を与えたことは間違いないでしょう。

そして、電車内の化粧については、別のベクトルが動きました。
なぜ、電車内化粧がマナーCMになったのかという背景を考えると、日本では「他人にとやかく口を出さない文化」だからでしょう。
この場合は、「立ち入らなかったゆえの偏狭さ」なので「立ち入る勇気があれば、そこから新たなコミュニケーションが生まれる」という可能性を否定しています。

何もしないことは、失敗もしませんが、その先の可能性もありません。
そして、どちらも社会からの個人への圧力が大きいことを示しています。

SNS上では、このふたつのニュースは激しく議論され、価値観のぶつかり合いを感じました。
日本も「察する文化」から「議論する文化」に移ってきたのかもしれません。
世間の多様性受容という意味では、日本社会は、良かれ悪しかれ駒が進んだように思います。

どちらにしても背景を考えることで、少しだけ扉が開き、理解への道は生まれるのではないでしょうか。
相手になることはできないのだから、想像力を使って「彼は、彼女はそうせざるを得ないのではないか」と思うことは、冒頭の「ブリッジしても気にしないよ。なぜなら、ありのままのあなたを愛しているから」にゆるやかにつながっています。

世間がトピックにしたこのふたつのニュースから見えてきたこと。
そのありのままに愛されないことは、何を意味しているのか。
評価されることに慣れすぎた若者たちの行先はどこなのか。

 

今を生きる若者の意識

「内閣府の特集 今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~」という調査があります。
そこから見えてくるのは、とらえどころがなくフワフワした、それでいて内側にこもった寂しげな若者たちの姿なのです。

自己肯定感の低さは、諸外国と比べて群を抜いています。
自己を肯定的に捉えている者の割合が低いのです。
加えて、日本は、諸外国と比べて,悲しい,ゆううつだと感じている者の割合が高くその数はドイツの2倍にあたるそうです。

私はこの統計と自分が接する実際の若者たちに誤差がないように感じています。
「私たち、大人が若者たちを押しつぶしている社会」になってはいないだろうかと案じるのです。
そして、この方向性は、日本人の規範性の強さからいくと、さらに強まるのではないかと予測しています。

このコラムの「一歩立ち入る勇気」は若者たちに向かって書いたのではありません。
ましてや、彼らを明るい方向へうながすためでもありません。

私たち、いわゆる大人と言われている世代こそが、自らを振り返るべきではないか、という思いから書きました。
勇気を持つのは私たち自身なのではないでしょうか。
大人なのだから、バランス良く、できるだけ正直に相手に伝え、人を切り捨てず、辛抱強く対話をしていくことが、若者たちが「捨てたもんじゃないな」と思ってくれる社会なのではないでしょうか。

辺境の島である宮古島の、名も無き老人たちから私が学んだ一番の知恵かもしれません。

多様性を尊び、誰もが発言できる雰囲気のあるコミュニティづくりを自らが構築していく、そんな役割が私たち大人にはある、と感じています。