ミスター高橋 「新日本プロレスに感謝」

1972年11月に㈱新日本プロレスへ入団し25年間在籍した私だが、あわやのタイムラグで全日本プロレスへ行ったかもしれないエピソードがある――。

ニ度ある驚愕は三度ある。

当時トレーニングインストラクターをしていたその日、日曜日の午前に我が家の電話が鳴った。
「高橋です」受話器をとると、
「田鶴浜だがね」と聞きなれた歯切れのいい声が耳に響いた。
全日本プロレスのテレビ解説をしている著名人である。
氏は当時、神奈川県ボディビル協会の会長でもあり、私は理事長という関係にもあった。

「高橋君に頼みがあるんだがね」
と、いつもよりは心なし柔らかい話し方で意想外なことを言った。
「全日本プロレスでレフェリーをやってくれないかな。キミのことは馬場君にも話してある」
あまりにも突飛な話に驚きを露にしている私に、氏は後を続けた。
「ジェリー・マードック(カナダ人のレフェリー)が帰国したいと言っているんだ」
つまり後任の依頼である。
ひととおりの話を聞いた私は「考えて返事をいたします」と丁寧に電話を切った。

ところが、その数分後に再び電話が鳴った。
アントニオ猪木さんとともに新日本プロレスを旗揚げした山本小鉄だった。彼とは子供時代からの友達でざっくばらんな間柄である。久々の電話なのに挨拶もそこそこに、
「高橋、うちへ来てレフェリーをやってくれねえか」と、またしても私を動天させた。
『二度あることは三度ある』という諺は知っているが『一度ある驚愕は二度ある』とは知らなかった。
なんとも摩訶不思議な偶然に戸惑いつつ、「実は…」と、先ほどの件を話すと、
「全日本なんかやめとけ、今からおまえんちへ行くから出かけずに待ってろ」
彼はこっちの都合も聞かずに電話を切った。そして、その一時間あまりの後、「車を飛ばしてきた」と勝手に上がりこんできた。妻の出したお茶を一口すすってから、「メインレフェリーのトルコさん(ユセフ・トルコ氏)が辞めるんで困ってる」と深刻な表情を作った。

山本は延々と全日本プロレスと新日本プロレスの将来的な発展格差を自信たっぷりに話し、わたしは、半ば強引に「分かった」と返事をさせられてしまったのである。

数日後、私は猪木社長に面会すべく新日本プロレスの事務所へ伺った。
雑談を交えた中で猪木さんは、山本からは聞いていなかったことを口にしたのである。
「英会話学校を出ているんだてね」
私は怠けてばかりいたことは隠して「ええ」と頷いたのだが、やはり『二度ある驚愕は三度ある』だった。なんと、レフェリーだけではなく外国人レスラー担当の命を受けてしまったのである――。

英語との出会い

ついでにというわけではないが、私が英会話を勉強する切っ掛けとなったとんでもない失敗談を話そう。

当時高校生だったある日。東神奈川駅の根岸線下りホームで電車の到着を待っていたとき、反対側の上りホームに電車が滑り込んできた。そのときアメリカ駐留軍の兵隊とすぐに分かる白人男性が私に近づき早口で話しかけてきたのである。もちろん英語だ。
横浜に住んでいて外国人を見るのは珍しいことではないが、直接話しかけられたのはまったくの初めて。彼の言っている事はまるで分からずチンプンカンプン。心臓が破裂してしまいそうなほどドキドキしてしまった私は、その場を早く離れたい気弱な一心からいい加減に「yes」と頷いてしてしまったのだ。
彼は笑みを浮かべ「Thank you」と言って電車に乗り込んで行ったのだが、その後にとんでもない間違いを犯したことに気がつき茫然自失となった。

「どうしよう…!
まるで分からない英語の中に「シンバシ」という言葉だけは聞き取れていたのだ。つまり彼は新橋へ行きたかったことに間違いないのだが、私が「yes」と言ってしまった電車は横浜線で、新橋方面とはまったく方角の違う八王子行きだったのである。

それ以降、私は何日も、いや何ヶ月も悩み続けた。
「もし俺がアメリカへ行って同じ目にあったらどんなに困ったことだろう…」
その頃、アメリカに淡い憧れを抱いていた私には大ショックだった。
「二度と同じ失敗を繰り返してはならない」
そう決心し、英会話専門学校入学を決めたのである。

外国人レスラーとの日々

さて、一時期は海外に出てプロレスの試合経験のある私だが、外国人レスラーの担当として国内巡業を連れ歩くことなどまったくの初体験。(日本人レスラー側と外国人レスラー側はまったくの別移動)しかも見習いなしのぶっつけ本番で毎シリーズ日本人は私一人きりである。(一シリーズは4~5週間で、毎回7~8名の外国人レスラーが入れ替わり、2週間のオフの後に次のシリーズが始まる。)
不安を抱えたまま職務に就いた外国人担当だったが、まったく想像もしていなかった数々の難題が待ち受けていた。その中でも一番困ったのは試合後の食事である。

彼らと会社の招聘契約はギャラの取り決め(週単位)のほか、来日する飛行機代や国内移動の交通費、宿代、怪我の治療費は会社持ちだが、飲食費だけは自腹である。つまり旅館やホテルは素泊まりという予約なので食事の用意はされていない。
1970年代前半の日本には深夜営業のファミレスもなければコンビニも無かったし、地方には完全な洋式ホテルが極めて少ない時代だった。試合が終わり晩飯にありつける時間はいつも10時頃。都会以外は真夜中の時間帯であり、開いている食堂などあるわけがない。小さな旅館へ泊まったときなどは、宿代とは別料金の予算を言い「作り置きで冷めてしまっていてもかまいません」と人数分の膳を無理押しで用意してもらい。または日中に町の食堂で昼飯を食べた際、「夜、遅い時間ですけどみんなで来ますから、どうか開けて置いてください」と平身低頭で頼み込んだりもした。

一口に外国人レスラーと言ってもアメリカ人だけではない。世界各国から様々な人種が参戦し来るので生活様式もまた様々。随分と戸惑いもあったが、巨漢ぞろいの彼らにとって殊更不便だったのは小さな和式トイレだったようだ。

試合の興行はどの町へ行っても一日限りなので、翌朝には次の町へ移動する。移動と簡単に言っても新幹線は東海道と山陽だけ、高速道路は東名だけの時代。ローカル列車に揺られて8時間くらいの旅はざらだった。(現在発売中の拙著『悪役レスラーのやさしい素顔』(双葉社刊の文庫本)で、彼らとの交友、涙あり笑いありの知られざる巡業秘話を披露しています)

プロレス、そしてネクストステップ

どのような条件下でも体力がなにより資本のプロレスラー。巡業中はジムへ通えないことで伝統的に行われてきたのが生ゴムチューブを使っての筋力トレーニング。私も彼らに教わり随分と体を鍛えたものである。私は『いつでも、どこでも、手軽に出来る』このトレーニング法を一般にも広めて見たいと思うようになった。だが、彼らが行っているトレーニング種目は腕を中心にしたほんの数種目だけ。トレーニング書として出版するには物足りず、試行錯誤の末に全身の筋肉を鍛える約30種目を考案。1979年に『プロレス式チューブトレーニング』という冊子を自費出版した。

当時は若者男子を中心の筋トレ法を紹介していたのだが、現在は高齢女性でも出来るよう改良を重ね、超高齢社会を鑑みての筋力維持、介護予防を目的とした『NPO法人日本チューブ体操連盟・貯筋倶楽部』を設立、会員指導と指導者養成事業を行っている。
(GoGetterzで『チューブ貯筋体操』実技編を見ながら手軽にトレーニングが出来るコースや、また指導員資格認定コースも計画中です)

プロレス界を引退してからかれこれ20年。往時を懐かしく顧みると、不思議なことにリングの内外すべてが楽しかった想い出となって脳裏に浮かび、自然と笑みがこぼれてくる。世界各国多彩な人種1,000人以上ものレスラーをつうじ、様々な文化に触れられたことと、いまなお勇名を轟かす多くのレジェンドらと寝食をともに旅をし、同じリングに立てたことを心底誇りに思っている。ありがとう新日本プロレス。